ゆるせないのはせっかくの天ぷらの「サクサク」を「ふにゃふにゃ」にしてしまうことだ。「サクサク」を保持したまま食うのは不可能だ。別皿で注文できれば別だけれどね。
暖かいつゆのどんぶりに天ぷらを置いてしまえば、あっという間に衣は「ふにゃふにゃ」化してしまう。この反応は絶望的な不可逆性でできている。端的に言えば「とりかえしのつかない」事象である。
つまり、天ぷら蕎麦とは「ふにゃふにゃ」化した天ぷらを具にした蕎麦だ、という前提になってしまっている。
カップ麺の蕎麦で「あと乗せサクサク」を標榜した商品があったが、あれはこの絶望感への一つの回答であったと思う。ようするにそういうことだ。
昔「山田邦子」という女芸人がいたが、何かの雑誌で、彼女が立ち食いソバ屋のふにゃふにゃドロドロの天ぷら(かき揚げ)が好きだ、というエッセイを書いていたのを読んだ。私はものすごく不快な気分になったのを覚えている。なんて貧乏臭い話をいい話みたいにしてるんだ?
だが私も年を取った。齢を重ねるとは多様な価値観に寛容になるということだ。だから、この絶望的な不可逆性をも私の価値観で許容される気分になってきた。
実は、きっかけがある。ラジオで、久米宏さんが、残った天ぷらを翌日煮て食うと旨いという話をされていて、そういえば私も大阪で「天とじ丼」を連日食していたなあ、あれは旨かった、って思い出したんだ。
そう、天ぷらが「サクサク」を失い、失意のどん底で「ふにゃふにゃ」化した状態もまた一つの味わいではないだろうか?「天とじ」が失意かどうか知らないが。
以上の経緯から、私は今日から天ぷら蕎麦を赦すことにする。別に頼まないけどね。