TBSラジオの「たまむすび」の竹山さんの回の番組で、電車の踏切の警告音を「キンコンカンコン」って表現する人が居るっていう話をしていた。
番組では「シーソーの音をギッタンバッコンって表現するようなもの」と言っていたが、それで、なるほどと納得した。
しかし、それなら、シーソーを「ギッタンバッコン」って表現することになんの違和感もないのに、踏切を「キンコンカンコン」って表現しても全く同じ…はずなのに、なぜ私には、こんなにも違和感があるかって言うことなんだ。しかも、違和感を感じない人も多そうだ、っていうことなんだ。(シーソーより踏切のほうが圧倒的に音がでかい、っていうのは置いといて。)
思うに、理由は至極簡単。
「キンコンカンコン」と聞こえる音が実在するからだ。「ギッタンバッコン」っていう音は実在しない。対して、そう、学校のチャイムとかは、音階のついた「キンコンカンコン」でしょ。「キンコンカンコン」は実際にそう聞こえる音の擬音が、厳然として存在しちゃう。だから、私の場合、そっちに引きづられて、踏切の擬音として成立しなくなってるんだ。そして、引きづられない人は擬音として成立する。
「変だVS変じゃない」論争は世にあふれているけれど、こんなことでも互いにわかり合えない、なんてことが起きてくるなんて、絶望的にしかならない話でした。(べつにそんなに深刻じゃないけど。)
8.6秒バズーカの太ったほうが、久保ミツロウさんの描くタモリに見えてならない件。
— えでぃ (@stykhr) 2015, 3月 23